シュファクス
ヌミディア最強の王で、首都はシガ、のちにキルタ。ローマからもカルタゴからも求められたが、ソフォニスバと結婚してカルタゴを選んだ。紀元前203年に敗れ、捕虜としてイタリアに連行された。

?~紀元前203年
ギスコの子ハスドルバルの娘。数年のうちに二度ヌミディアの王妃となり、その生涯は第二次ポエニ戦争におけるカルタゴ外交の焦点となった。そしてその死は、一つの拒絶であった。
年:シュファクスが同じ日にスキピオとハスドルバルを迎えた
人のヌミディア王と結婚:シュファクス、続いてマシニッサ
日:キルタの陥落からマシニッサとの婚礼まで
年(紀元前):毒杯
ヒスパニアでポエニ軍を指揮した将軍、ギスコの子ハスドルバルの娘であるソフォニスバは、カルタゴ屈指の名門に属していた。教養があり、美貌でも知られた彼女は、単なる王女ではなく、戦略上の切り札であった。
マサイシュリ族の王シュファクスとの結婚は、愛情の問題ではなく巧みな一手であった。ローマがアフリカ侵攻の準備を進めるなか、ヌミディア最強の王とその騎兵をカルタゴ側に引き入れたのである。
「ソフォニスバ」は、ポエニ語の名のギリシア語・ラテン語形で、おそらくṢapanbaʿal、「バアルは守りたまえり」の意。
二つのヌミディア王国がこの地方をめぐって争い、ローマとカルタゴはヌミディア人をめぐって争った。
ヌミディア最強の王で、首都はシガ、のちにキルタ。ローマからもカルタゴからも求められたが、ソフォニスバと結婚してカルタゴを選んだ。紀元前203年に敗れ、捕虜としてイタリアに連行された。

かつてヒスパニアでカルタゴの同盟者だったが、シュファクスに領地を奪われてローマに寝返った。ラエリウスとともに勝利してソフォニスバと結婚するが、やがてスキピオに従わざるをえなくなる。紀元前148年まで統治した。

スキピオにとって、シュファクスをローマから離反させたハスドルバルの娘はローマ国民のものであり、凱旋式で歩かせねばならなかった。マシニッサには、彼女を救うことも、命令に背くこともできなかった。
彼は召使に毒を届けさせる。ソフォニスバはそれを「婚礼の贈り物」として受け取り、ためらうことなく飲み干した。ローマの行列に鎖でつながれるよりも、死を選んだのである。
Accipio nuptiale munus, neque ingratum, si nihil maius vir uxori praestare potuit. Hoc tamen nuntia, melius me morituram fuisse si non in funere meo nupsissem.
« この婚礼の贈り物を受け取りましょう。夫が妻にこれ以上のものを贈れないのであれば、感謝の気持ちがないわけではありません。ただ、彼に伝えてください。葬儀の日に結婚していなければ、もっと潔く死ねたでしょうに、と。 »
ソフォニスバは、敵が残した記録を通してしか知られていない。
リウィウスは、捕虜となったシュファクスに、彼女は自分にとっての「復讐の女神」であり、ローマとの友好から引き離した存在だったと語らせている。ソフォニスバを誘惑する女として描くことは、ヌミディアの寝返りを説明するのに好都合だった。むしろそこには、ローマの勝利がカルタゴの破滅を意味することを理解していた、冷静な外交家の姿が読み取れる。
彼女はローマの凱旋式で鎖につながれるよりも毒杯を選び、最期の息までカルタゴの名誉を守った。その行為は、ヨーロッパ文学が繰り返し描き直してきた。
ポエニの抵抗の象徴であり、その最後の選択は支配に対する尊厳を体現している。ルネサンス以来、彼女の死は悲劇、オペラ、絵画の主要な主題の一つとなった。
『ソフォニスバ』。イタリア語で書かれた最初期の「規則的」悲劇の一つ。
『ソフォニスバ』。フランス古典悲劇の画期をなす作品。
『ソフォニスバ』。愛よりも栄光を選ぶ女王。
『ソフォニスバの悲劇』(The Tragedy of Sophonisba)、イングランド。
『ソフォニスバ』。ミラノで初演されたオペラ。のちにトラエッタ(1762年)などが続く。
メレの戯曲の改作。
マッティア・プレーティ、ジャンバッティスタ・ピットーニをはじめ多くの画家が「ソフォニスバの死」を描いた。